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どっこーんと言う轟音。
地震のアレです、ええ。地面が揺れる前に音だけが早いので先にやってくるあの現象です。
花火なんかを見ていると音の方が先に流れてくるのと一緒で、音は早いのです。
それはさて置き、その後伝わる振動と何かのぎしぎしと軋む音。
ゆれてる、ゆれてるよ。避難しないといけない所じゃないのかな…
それは、通常ならば何とかしないといけません。でも私はその時あいにく寝ていたので身動き取れません。
そう、寝込みを襲われたら何だってひとたまりもありません。
その時は震度2~3程度って所だったのかも知れませんが、どうにもこうにも寝ぼけた頭で知覚していただけなので
それが夢の出来事なのか、或いは本当にあった事なのか覚えていません。
そもそも、本当に地震があったのかも疑わしいところ。
その日のニュースちゃんと見なさい私。不摂生も良いところだぜ。
程なくして地震(?)も収まって一旦急激に覚醒した脳は再び眠りへと…。
でもね、脳はちゃんと考えてた。「これで死ぬならそれも良い」って。
諦めとか妥協とか、そんな生ぬるい気持ちじゃなくて「仕方ない」とも思わず「綺麗かな」って。
生きるだとか、死ぬだとかを題材に上げるのってあんまり好きではありません。
特に人に対して死ね!だの何だの言うのは自分もダメだし、人が言っているのを見るのもダメです。
自分の命をないがしろにするのも勿論ダメだし、人の命を手に掛ける事だって勿論ダメ。
命って一つしかないものです。命、健康、財産くらいの順番で人の大事なものってのは順位が決まっていると思うのですよ。
散々これだけ書いておきながら、生と死の観念について考えるのは割りと好きだったりします。
つまりが口に出すのがNGと心のどこかで線引きがあるんでしょうね、私の場合は。
今回のことでもそうなんですが、死ぬ時はあっさり自分は死ぬだろうと思っているので別段未練を残したりだとか、
そう言うのはきっと無いと思うのです。生きている今で余裕があるからきっとそう思うだけ。
これが切羽詰った死の瀬戸際にでもなれば、考えも改まるってもんでしょう。
今の私に大事なのは死ぬ直前の光景、いやそうじゃないだろ。何書いてるの私。
そもそもこんな事ばかり書くと、またブログに人が寄り付かなくなりますよ、名実ともに絡みにくくなっちゃいますよ、と。
生命を手に掛ける記憶は罪悪の中でも郡を抜いて重く圧し掛かるものだと思います。
例え当事者同士が他人であったとしても、肉親であったとしても、自分であったとしても。
重みに耐え切れる人間はこの世には居ないんですよ、そう、この世には。
東方Projectスキー。
